成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人ご法語第二十三章(一枚起請文)②

一枚起請文は、どの一文をとっても大切なものばかりですが、この一文はその中でも一際大切な一文です。

「念仏を信ぜん人はたとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩に同じうして、智者の振る舞いをせずしてただ一向に念仏すべし」
「念仏を信ぜん人」といいますのは、「信じる人は」ということです。
現代語の感覚ですと、なんとなく「信じない人」と理解しそうですが、そうではありません。
古語辞典で「ん」と引いてみると、否定の意味は一つもありません。
推量や婉曲などいくつかの意味がありますが、この場合は意志をあらわす助動詞です。
正確に訳すと「信じようという人は」となります。
ザッと訳しますと、「念仏を信じようという人は、たとえお釈迦さまが一生涯かけて説かれた釈迦一代の法を学び尽くしたとしても、阿弥陀さまからご覧になったらお経の一文知らない愚かな身と何ら変わりないのだから、学問をしていないが一生懸命阿弥陀さまにすがってお念仏を称える尼入道さん達と同じように、智者の振る舞いをせずにただひたすらお念仏を称えなさい」となります。
尼入道という言葉は現在ありませんので、解説いたします。
尼入道とは、当時戦で夫を亡くした女性が集まって相互扶助をし、夫の菩提を弔うために、自分自身の往生のためにひたすらお念仏を称えていた聖集団です。
完全に頭を剃り落とすのではなしに、途中まで剃り上げるという変わった髪型をしていたそうです。
今で言うおかっぱのような髪型と思われます。
この方々は正式な僧侶ではありません。で
すから仏教の学問などは全くしていないのです。
しかしひたすら阿弥陀さまにすがってお念仏を称えていたわけです。
極楽へ往生するためには学問は必要ありません。
どれだけ学問を重ねても悟りや往生には一歩も近づきません。
人間同士で勝ったとか負けたと比べているだけのことで、全く往生の役には立ちません。釈迦一代の法は膨大な教えですから、学び尽くすなど到底できませんが、たとえ学び尽くしたとしても、阿弥陀さまがご覧になればお経の一文知らない人と全く変わりがないのです。
だから、尼入道さん達をご覧なさいよというわけです。
彼女たちはお経なんて全く知らないけれど阿弥陀さまにすがってひたすらお念仏を称えているじゃないか、あの人達を見習いなさいとおっしゃるのです。
たまに、この一枚起請文は尼入道などの女性を差別しているのでは?という方がおられます。
なぜそうおっしゃるのかよく聞いてみますと、やはり「念仏を信ぜん人は」を「信じない人は」と訳しておられるようです。
「信じない人は」と訳すと後の意味が支離滅裂になるのですが、無理矢理意味を掴もうとすると、恐らくこのようになります。
「念仏を信じない人はたとえ釈迦一代の法を学び尽くしても愚かなままでしかない。
無智な尼入道達と同じようなものだ。
だから智者の振る舞いをせずにひたすらお念仏を称えなさい」という具合でしょうか。
これでは尼入道を差別したように聞こえます。
意味が全く変わってしまいますので、「信ぜん人」の訳し方にご注意ください。
智者の振る舞いというのは、疑いの心です。
ここでは仏教の学問について書かれていますが、考えてみますと一般に知識や経験があればあるほど信心が深くなるのかというと、決してそうは言えません。
逆に知識や経験があると「科学的に見たら極楽なんてあるはずがない」とか、「阿弥陀さまなんて信じるのは荒唐無稽だ」などと言うことになることが多いのです。
高々数十年の経験や、中途半端な科学によって目が曇ってしまいます。
学問も究めた人は「どれだけ学んでもおぼつかない」と愚かさを自覚するといいます。
湯川秀樹博士などはそうおっしゃっています。
しかし中途半端な者は自分が偉くなったように勘違いします。
どれだけの学問知識を積んでいようと経験を積んでいようと極楽へ往くためには一切関係ありません。
もちろん生活する上では知識や経験も必要でしょう。
しかし往生には役に立たないのです。
ですから、知識・経験という重い鎧を一旦脱いでみるのです。
どれだけ分厚い鎧をつけていても、阿弥陀さまの前に立てば鎧など着けていないのと何の変わりもありません。
ただ阿弥陀さまにすがる以外に方法はないと自覚して、智者の振る舞いをせずにひたすらお念仏を称えるのです。

「証のために両手印を以てす」
「私が書いた証しに両手型を押しておきましょう」

「浄土宗の安心起行この一紙に至極せり」
「浄土宗の教えをこの一枚の紙に書き尽くしました」

「源空が所存この外に全く別義を存ぜず」
源空とは法然上人です。法然房源空とおっしゃいます。
「私源空が知っているところはこの外に何もありません」

「滅後の邪義を防がんがために所存をしるしおわんぬ」
「私が死んだ後、間違った理解が出ることを防ぐためにこのように記しておきます」
実際法然上人のご生前から邪義が横行しました。
「念仏さえ称えていればどれだけ悪いことをしても構わないんだ」とか、「念仏以外の宗派の教えでは誰も救われないんだ」などと法然上人がおっしゃっていないことを、あたかもおっしゃったかのように言いふらし、あちこちで顰蹙を買いました。
その煽りを食らって法然上人は晩年讃岐へ島流しに遭っておられます。
配流からようやく都へ帰ってきましたが、体調を崩し建暦二年の一月二十五日にお亡くなりになりました。
ですから最後まで邪義を心配されたのです。

以上が一枚起請文です。
浄土宗で最も大切にする御法語です。
毎日拝読しましょう。