成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人ご法語第九章

原文

念仏の行者の存じ候うべきようは、後世(ごせ)を恐れ往生を願いて念仏すれば、終わる時必ず来迎せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外(ほか)の事候わず。三心(さんじん)と申し候うも重ねて申す時は、ただ一つの願心にて候うなり。その願う心の偽らず、飾らぬ方をば至誠心(しじょうしん)と申し候。この心の実(まこと)にて念仏すれば臨終に来迎(らいこう)すという事を一念も疑わぬ方(かた)を深心(じんしん)とは申し候。この上我が身も彼(か)の土(ど)へ生まれんと思い、行業(ぎょうごう)をも往生のためと向くるを廻向心(えこうしん)とは申し候うなり。この故に、願う心偽らずして、げに往生せんと思い候えば、自(おの)ずから三心は具足(ぐそく)する事にて候うなり。

 

現代語訳

念仏の行者が心得ておくべきことは、来世の苦しみを恐れ、往生を願い、念仏すれば、命の終わる時には必ず〔阿弥陀仏が〕お迎え下さると信じて、念仏をお称えするより他の事はありません。

〔念仏者に必要不可欠な〕三心と申しますのも、まとめて申す時は、ただ一つの〔往生を〕願う心以外にありません。その願う心に、嘘偽りがなく、取りつくろうことのない点を至誠心と申します。この心が真実であって、「念仏すれば、〔阿弥陀仏が〕臨終の時にお迎えくださる」ということを瞬時も疑わない点を深心と申します。その上に、自身は「かの浄土へ生まれよう」と願い、善行の功徳は往生のためにと振り向けるのを廻向心と申すのです。

こういうわけで、願う心に嘘偽りがなく、本当に往生したいと思えば、自然と三心は具わることになるのです。    (『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会 より引用)

 

解説

お念仏はいつでもどこでもどんな時でも称えることができます。また、誰でも称えることができるということが大きな特長でもあります。
しかし、だからといって何の信心もなしに称えればそれでいいのかというと、やはりそうではありません。信心は必要です。
この信心について、三心という言葉で説明されます。三心とは、至誠心、深心、廻向心の三つです。廻向心は、正式には廻向発願心といいますが、この御法語では略して廻向心となっています。
至誠心とは誠の心です。裏表のない信心をいいます。私はお通夜に伺った時には必ずお参りの方々に一緒にお念仏をお称えするようお勧めします。色んな宗派の方、他の宗教の信者さん、無宗教の方など様々おられるでしょうが、亡き人のために共にお念仏を称えていただくようにしています。殆どの方が心を込めてお念仏を称えてくださいます。しかし、お通夜ではお念仏をお称えしても、恐らくその場限りでしょう。それ以来お念仏を称えるようになったという方がおられたら嬉しいのですが、なかなかそうはいきません。そのような方達に至誠心があるとは言い難いですね。
あるいは七回忌の法要があったときに「お念仏を称えるのは久しぶりだなあ。三回忌以来だよ」というようなことではいけません。
信心があるフリをするのではなく、誰が見てようが見てまいが、関係なくお念仏を称えるような信心を至誠心といいます。
深心とは深く信じる心です。こんな煩悩だらけの私であるけれども、南無阿弥陀仏と称えれば必ず阿弥陀さまはお救いくださると信じるのです。救われて当たり前と信じるのではありません。本来、自分の力ではとても救われない私だけれども、阿弥陀さまの力によってはじめて救っていただけることを深く信じるのです。
次に廻向心です。廻向とは功徳を回し向けることをいいます。月参りや法事でいつも行っている廻向は、私や皆さまがお念仏を称え、阿弥陀さまから賜った功徳を私が一人で使うのではなしに、亡き人にどうぞこの功徳をお使いくださいと回し向けるのです。ここでいう廻向は、あらゆる功徳を極楽へ振り向けることをいいます。一言で言いますと、極楽へ心を傾けることを廻向心といいます。
このように三心を具えて口に南無阿弥陀仏と称えることが大切です。三心のない念仏では往生できません。このように申し上げますと、「大変なことだなあ。お念仏も難しいなあ」と思われるかも知れません。しかしよく考えますと、ごく当たり前のことしか書かれていません。
廻向心は極楽へ思いを向けると申しましたが、極楽へ往きたくない人が極楽へ往けるはずがありません。極楽へ往きたくない人を阿弥陀さまが無理矢理連れて行くのであれば、それは往生とは言わず、拉致と言わねばなりません。深心は阿弥陀さまを信じる心ですから、これもあって当然です。阿弥陀さまを信じていない人が極楽へ往けるはずがありません。至誠心にしても、その信心が嘘であったら話しになりません。三心とは難しいように聞こえますが、実は当たり前のことなのです。この三心を踏まえて本文を見て参ります。 「お念仏を称える人が知っておかなくてはならないことは、命尽きた後地獄や餓鬼道に往くのではなく極楽へ往きたいと願って念仏を称えておれば、臨終の時に阿弥陀さまが必ずお迎えくださると思って念仏称える以外に何もないのです」
極楽へ往きたいと思って阿弥陀さまを信じて念仏を称える以外に何もないということです。それがすべてなのです。
「三心というのもまとめればただ一つの心です」
分析すれば三つになるけれども、要は往生を願って阿弥陀さまを信じて念仏を称えるだけです。三心は一心なのです。大阪の一心寺の名はここからきています。三心という言葉が大事なのではありません。三心なんて知らなくても、「阿弥陀さま、往生させてくださいね」とお念仏を称える人は三心が籠もったお念仏を称えているのです。
その一つの心を分析して、「往生を願う心が嘘でなくて飾っていない、これを至誠心という。誠の心をもって念仏を称えれば、臨終の時に必ず阿弥陀さまがお越しくださるということを少しも疑わない心を深心という。さらに極楽へ往きたいと思ってあらゆる行いを往生のために振り向け廻向する心を廻向心という」ということです。
「よって、願う心が嘘でなくて、本当に往生したいと思っていれば、自然と三心は具わるのです。」ということです。
だから「とにかく称えよ」と言われます。称えている内に自然と三心は具わるというのです。
最後の「三心は具足することにて候なり。」とある、具足という言葉は、「一つも欠けずに具わる」という意味です。ですから三心は一つでも欠けると往生できません。しかし、一つだけ欠けるということは不可能です。往生したくないのに阿弥陀さまを信じているというのはおかしいですし、阿弥陀さまは信じないけれども往生はしたいというのもおかしいです。阿弥陀さまを信じて、往生もしたいけれどもその心は嘘であるということなら話になりません。やはり三心は一心です。一つ一つ順番に具わるのではありません。具わる時は一度ですし、いつの間にか具わっていることもあるでしょう。
三心ということは取り立てていう、難しいことではありませんが、私たちは無意識に身勝手な思いでお念仏を称えることがあるでしょう。「家族がみんな元気でありますように。」「孫が大学に合格しますように」「宝くじが当たりますように」そのようなお念仏も称えることがあるかも知れませんが、極楽への往生のためには何にもならないのです。どれも三心に入っていないのです。極楽へ往くためには三心が必要ですから、ときどき、「私の念仏は往生できる念仏であろうか」と見直すことも大切です。